意見聴取会で電力会社を排除

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120717-OYT1T01209.htm
「偶然性/確率性のある要素で出てほしくない物が出る」というのは案外良くあること。スーパーロボット大戦シリーズ好きで昔のシリーズから遊んでいた人なら、「90%以上命中、10%以下回避、なのに外れた!当てられた!ムキー!!絶対確率操作されてるよ!バンダイバンプレスト)卑怯だ!」となった人は存外多いと思う。だが「偶然性があるように見せかけて偶然性がない」ことを、通常「イカサマ」ということも皆知っていると思う。
原発に関する意見聴取会で二回連続電力会社関係の人が出て意見を述べたということから、反原発の方から「これはイカサマだ、電力会社に意見を述べさせるな」と強烈な主張があり、国側が事実上電力関係者を排除することにしたという記事があった。個人的に、この決断は非常に誤ったものであって、極めて危険な状況に国も国民も陥っている証左と思う。声が大きい人にとって不都合な意見が出ることを否定し、それに沿って一番大きな組織が排除を決める…大戦直前の大政翼賛会の空気と何が違うの?この展開と空気がどれだけ危険なことか、皆分っているんだろうか。
ここで政府と反原発派の人がやるべきは、「偶然性が維持されたかどうかの調査」であるべきだった。その上で電力会社関係の人が偶然複数回選ばれたのならば、「少数派からの意見も聞くための”偶然性を使った抽選”が正しく機能していた」ことであり、むしろこれは喜ぶ事であるべきだ。だがそうはならなかった。嫌がる人が多いから排除、意見比率に沿った人員構成の選抜…これこそイカサマじゃないの?「意見比率構成」なんて調査方法でいくらでも操作可能なのは社会調査法の分野では普通に知られた話*1
意見発表抽選に電力会社の人が多数応募したからだ!という意見も見たが、じゃあそれを否定する方はなぜ応募しなかったのか。「パブリックコメント」募集の際に利害関係が強い所から数通しか集まらず、それをもって国民の意思としている面があることは、反原発活動や政治活動に熱心な方なら当然ご存じの筈。特に旗を振っている方なら分っているに決まっている。なぜそう思うのか…表現規制の戦いにおいてもそうだから。政治的な戦い方なんか一つも知らなかった自分も、ネット等で規制運動と戦ってきた方の意見ややりかたを学んで、最悪の結果をギリギリ回避してきている状態だから。
今の反原発活動は、末期状態に陥った部落解放運動や人権擁護運動と同じように見える。最初は社会的弱者の声をなんとか政治に届けたいと考えた、文字通りの「弱者救済運動」だった。そしてそれは一定の成果を上げ、弱者救済につながっていったのは事実だ(当事者が救済方法に満足したかはともかくとして)。しかしその後どんどん先鋭化していき、今では「”弱者”を武器にした強大な政治圧力利権団体」になってしまっている。反原発活動は、ネットの発達もあってこの流れが極めて急速に進んでいるように感じる。
正直、「反原発でなければ人に非ず」「原発賛成派はネトウヨ」「原発賛成の人が意見を言うのはおかしい」なんて空気が当り前のように世間に広まっているのがどれだけ恐ろしいことなのか、分っている人はどの程度なのだろうか。公然と相手を人格否定しても笑って賛同され、存在否定しても諸手で歓迎され、多少でも否定的意見を言えば人に非ずと罵られる。そして「でもそれは俺のせいじゃない。私は言っていないから関係ない」とすぐに責任回避に走り、それが許される状況。すべての少数派を叩きつぶして満足した後に待っているのは多数派内部での内ゲバですか?中国やロシアのような思想統制社会ですか?こういう状況が民度の低さってものだと思うのだが。
「その意見には個人として賛同できない。けど、言いたいことは分るし、そういう君のことは支持するよ」と言える人の少なさ。個人的思想に合致しないことが理由でイカサマを主張し、結果イカサマを強要することを良しとする異常性を指摘する人の少なさ。これこそが、今の日本の閉塞性や危険性を示している端的な事例と個人的に思う。

*1:だからこそ学問としてまだまだ未熟で、発展させなくてはいけない分野でもある。社会学なんて、人類史に比べればまだ超若い学問だし。