表現規制と「関心を持ち続けること」

人権擁護法案や都条例・児ポがらみの表現規制で、興味を持って政治を追い始めて気が付くと10年近く(!)。あの頃に「このテーマは超長期戦だから、適度に休みながら追いかけろ」「とにかく関心を持ち続けること。これだけでいい」と先達に言われたことを今更ながら痛感してる。
「関心を持ち続ける」ことがこんなに疲れることとは。特に世間=世の中を動かしている人々に否定的に見られるテーマであればなおさらだ。嬉しい、楽しいニュースなんて全体の10%もなく、嫌になるニュースのほうが圧倒的に多い。例えば児ポがらみで聞いた実際の虐待児童の講演会。凄惨の一言だった。そしてそれは「表現規制でどうにかなるなんて笑い話にもならない」こともよく見えたし、講演された当事者の方も話していた。「規制側でこの話を聞いてくれる人がいない」とも。
でも「関心を持ち続ける」ことで、これまで見えてこなかった政治/法律/マスコミの仕組みも見えてくる。そして小さくてもいいから関心を持ち続けて、声を上げ続ける。今回の「児ポ法案からアニメ漫画附帯が消えた」のはその成果だろう。昔だったらありえないことだ。その代わり単純所持は通ってしまった。ただ政治力学と全体の劣勢を考えれば、こういう決着点についたのは納得できないけど理解はできる。同時に、規制推進側は今後一層えげつない攻撃を仕掛けてくるであろうことも予想できたし、現にすでに動き始めているらしい。
推進側は反対派の声は聞かないし対話も拒否する。理論も実態も見ず、感情と嫌悪と意図的な統計数値のみで語る。これは10年関心を持ち続けての実感だ。多数派の傲慢と言えるが、それでも世の中はそちら基準で動くのも事実。金も彼らはたくさん持っている。でも反対派も増えてきた。興味の度合い違いや意味のないジャンル対立はあるし金もないし評論家は多いけど自分で動く人は少ない等と、規制側に比べればはるかに質は劣っているけど、それでも増えている。若い政治家で関心を持ってくれる人も増えた。
都条例以降の「反対派にとって(多少なりとも)まともな結果」がでていることは、反対派の先達に言わせれば「信じられないこと」らしい。今でも少数派であることと合わせて、そのことは肝に銘じなければいけない。選挙に行っているのは老人で、政治を動かしているのも老人だ。つまり昔の価値基準で今を語っている。そして規制側は感情論を主として規制を語る。
このことに関心を持って以来、規制推進派の皆さんに聞きたいと思っていることがひとつある。
「あなたにとって『健全な青少年』とは、どのような人物像ですか。できるだけ詳しく教えて下さい」
そしてその答えを現役の小中高生に見せて感想を聞きたい。果たしてイコールだろうか。