都条例修正の問題について

個人的に、この修正の問題を見ていて非常に気になっているのは、その決定プロセスが極めていびつではないかという点だ(内容も言うまでもないんだけど)。

  • パブコメ募集」→異例の1600件のコメントで大半が反対意見。
  • 「反対の人は誤解しているので対応する必要はない」という理由で、事実上反論を封じる。→読んだ人の大半が「誤読」する文書という時点で極めて問題が大きい筈なのだが。
  • さらに「反対意見を出している人は精神障害者」という差別発言が委員の口から発せられる。
  • 「反対派の心配を払拭する内容にする」という意向で作ったのが「規定範囲がほぼ無制限」と言える「答申案」だった。
  • 民主党等の反対により、「未成年まで」と適用範囲を狭める…が、「非実在青少年」という創造・架空の存在にまで枠を広げようとすることと、「青少年の健全育成を阻害するもの」という文面で、事実上「全体に網をかぶせる」状況は維持されている。
  • 答申案から削除されたはずの「蔓延している」「撲滅する」等の文言が、都知事や治安対策本部長から発言される=事実上答申案に戻る内容。
  • パブコメの内容を請求しても(都議や情報請求した人ならいつでも見ることが出来る)、よく分からない理由をつけて、会期に間に合わない日程を提示している。

「都民の代表として、民主的に物事を進める」という観点がまったくと言って良いほど欠けてしまっている。ここで動いているのは、ある一定の偏見に基づく思想と、感情論に訴えて強行突破しようとしている強引さだけだ。民主主義はどこに言ってしまったのだろうか。
さらに本当の意味で「青少年の健全育成」のために何をするべきなのか、という観点が完全に失われている。『青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害』するのが問題だ、というのは判るが、じゃあ『どこが性に関する健全な判断能力を形成するのか』という答えはどこにもない。完全無菌室の清浄な世界を作って、ありとあらゆる暴力・性表現・精神的圧力から解放されることが健全な判断能力の形成なのだろうか。
個人的な考えだが、むしろ大人の方が「子供の現実」を正しく見る勇気を持てていないのではないかと思う。優良/俗悪その他諸々世界には色々な情報があるが、最終的にそれを判断するための材料が彼等自身を取り巻く倫理・道徳・文化・社会。それを自身の経験として吸収し、彼等自身の判断基準が決まって行く。勿論、学ばせる側の大人は年齢に応じて段階を踏ませてやる必要があるが、それを含めて青少年(子供たち)の中に必要な判断力を育て上げることこそが「大人の仕事」だ。法律でどうこう決めるものではない(倫理観は多様なのだから)。勿論子供に嫌われることもあろうが、大人/親は「子供に嫌われる」のも仕事のうちだ。子供達にとって、人生最初の社会の壁なのだから。大事な大人/親の権利である。
しかし、この条例修正案はそれを放棄させ(あまつさえ行政や官僚がコントロールする気まんまん)、ただひたすら「有害である」と独自基準で勝手に判断できるものを、事実上の発禁レベルに持って行くことが可能というもの。当初は罰則はないだろうが、数年後に「効果がないから罰則付与」なんてのはよくある既定路線だ。警察関連はそれを目指している(だから基準はあいまいのままにする)。
仮に今回の条例修正に賛成できるとするならば、それは「確かに運用側は十分慎重に運用してくれるのだろう。ならば安全だ」と思えることなのだが、前述のように法規制をしたい派閥の発言は過激に過ぎてとても冷静に判断するつもりはない*1。これで何を賛成しろと言うだろうか。

*1:勿論、彼等自身は自身の身勝手な価値観に基づけば冷静というのだろうが。