自炊業者を著作者が訴える

東野圭吾氏ら作家7人、書籍スキャン“自炊”代行業者を提訴 -INTERNET Watch Watch
このニュースには色々思うところがあるんだけど、漂ってくる香りが「規制反対vs規制推進」に似ているなあと。表現規制の戦いでは、反対派が理論や現状を数値で示し、推進派が感情で押し通すという「通常考えられる逆の状況」が発生しているが、この自炊代行業に関する訴えも記事を見る限り同じ方向性が見受けられる。
自炊代行を訴えたいという作家達の声や気持ちは分かる。ただあまりに感情論を前に出しすぎてしまって、法理に訴えるべき訴訟を自ら台無しにしている。例えば、浅田氏がこんな発言をしている。

「作品は血を分けた子供と同然で、見ず知らずの人に利用され、知らないところで利益が出るのは許せない。裁断された本は正視に耐えられない」

駄目だよこんな事言っちゃ。作品が血を分けた子供と同様なのは感情では理解できるけど、それが「利用され利益が出て」あまつさえ「裁断された本は正視に耐えられない」とまでくると、もはや自炊代行業の何を訴えたいのかすら分からない。これでは結局「作家は自分の書籍について、自分以外の誰かがどこか知らないところで破損されることが許せない」と言っているも同然だ。だが、本を購入した段階でその本は読者のものだ。作家のものであるならば、書籍一つ一つに対する明確な責任範囲を本に記載し、何かあればその本の”被貸与者”に保障しなくてはならない。だが、現実そんなことはありえない。
あくまで、これは「著作権を盾に法律に訴えた」のだから、訴えた方はその軸をぶらしてはいけない。法に訴えるなら、徹頭徹尾法理論争で追求しないと意味がない。感情論優先で話を進めるのであれば、それはもはや「法」ではない。そもそも感情に左右された私闘や報復があまりに酷くなった歴史があったからこそ、「法」という別の理論を立てそれに拠る形で人々は発展してきたのだから。
で、気がつくとニコニコニュースでも記事なっていたが、物言う漫画家佐藤秀峰と「もしドラ」の作家が論争していたというのでそれぞれ読んでみた。
佐藤氏の論は至極まっとうに感じた。冷静に状況を見ているし、言っていることもまともだ。賛成だろうと反対だろうと、それぞれ拠って立つ根拠が文中に示されているので議論もし易い。流石はあちこちに喧嘩を仕掛けているだけあって(苦笑)、こういう物言いは非常にうまいと思う。
翻って「もしドラ」の作者の論だが、これはもはや論になっていない。「本の所有権」という話に対して『太陽とか土とか水でできた紙を使ってできた本を、数百円払ったくらいで「所有」』『読み方からして「自由」ではありません。例えば「あ」という文字があったとしたら、これを「い」や「う」と読んではいけないのです。』なんて言葉が出てきた段階で、本人にもまともに議論するつもりがないことがわかる。これは新興宗教や原理主義的規制論者がよく使う手口だ。互いに議論をしてなんらかの結論を見出そうというつもりは微塵もなく、突然突拍子もない普遍論の提示/根拠のない妄想を根拠にした展開/ごく希な事象を一般論に拡大、と言った話をして相手を煙に巻き、相手が呆然としている内に勝利宣言をするという方法…つまり詭弁論の世界だ。全体を通してみれば、「ああ、とにかく嫌なのね」というのは感情論として理解はできるのだが、とにかく感情が激しすぎてしまって、ドラッカーなんて一般人にはあまり知らないような学者の言葉を分かりやすくかみ砕いて紹介した方の言葉とも思えない。これは非常に残念だ。
ちなみに、私自身自炊はしていない。デジタル機器は大好きだが、物語をモニターで読むのには未だに違和感を感じるし、本という形態が大好きだからだ。だから、自炊するためには本を裁断しなきゃだめだよ、というなら断る以外に選択肢がない。だが、自炊行為に及んでいる人を非難する気もさらさらない。そうすることが今の時代にマッチしていることは事実だからだ。自炊代行業は、ある種のニッチ商売と思う。「困ったところに商機がある」のは古今東西いつもの話。これに対して著作権を盾に裁判を起こすことは構わないけど、それだけ日本の出版業と作家陣は「時代に完全に乗り遅れて」いて「彼等の読者となりうる人々と意識の乖離が始まっている」ことは強く自覚すべきだと思う。
…というか、出版側はこれだけのニーズがあるなら確実に商売になると判断して、いくつかの障害をぶっ飛ばして一気にGOする方が絶対に良いと思うんだけどねえ…。また海外から押し寄せてきてから「仕方ないから」という理由でロックや制限をソフト&ハードにかけまくった誰も買わないフォーマットを制定して展開、そして「ほら売れない」と意味不明の理由をつけて胸を張るんだろうか。むう。