「絶歌」議論について思うこと

あの酒鬼薔薇聖斗本人がかつての事件を思い出しながら書いたという一冊。内容はネットでいくつか出ている感想や一部記載の違法画像等で少し見た程度。興味はあるんだが、「実名ではない」「印税の行き先が遺族ではない」の2点で読む予定は今のところない。この2点がクリアされたら、一冊購入して「殺人鬼と成った(当時の)少年自身の心理とはどういうものだったんだろうか」という観点で読んでみたいと思う。
今あちこちで大議論になっているのはまあ当然だろうなと思う。ただ「じゃあ出版しなければ良かった」「出版禁止」が正解なのかというと個人的には絶対に違うと思う。もともと太田出版は、メジャーな出版社からは出にくいマイナー・ニッチだったり危険なジャンルの本を良く扱うところなので、発売元がここと知ってある種の安心感はあった。そして、おそらく内部でもかなり議論はされていたろうし、大規模な反論やバッシングも当然踏まえていたろうから、この世間の反応はすべて想定内だと思う。責任者のコメントも発表されていたが、内容そのものには個人的に共感を覚えている。
今の日本には共感主義が強くなりすぎて「臭い物には蓋」をする傾向が極めて強く、それゆえに蓋をされる側の声が表に出てくることはほとんどないし、それを許す風潮でもない。そしてそのために「蓋をされた側のイメージ」はさらに世間が勝手な妄想を重ねて「彼らにとって見たかった真実(事実にあらず)」が一人歩きする。そういう意味において、この出版はアリだと感じている。今回に限っていえば、たとえその内容がどれだけ稚拙で一人語りで胸糞が悪くなるものであったとしても、当人が世に出したいと考え、それが世に出て批判にさらされている現状は「きわめて正常」と思っている。
表現の自由」や「規制論」的な立場で考えると、「出版して議論や批判を喚起する」のは大いにありであって、それこそが表現の自由が必要な理由と思っている。たとえ多くが痛烈な批判であったとしても、議論が発生するなら大いに結構で十分意義もある。「遺族の気持ちを考えて」という気持ちも理解はできるが、それゆえに何もいえなくなる世の中はやはり危ない。むしろ「あえて出版して批判が噴出する今の状況」が正常な流れ。また「胸糞悪いものを読まされた」から出版禁止を訴えている人は、それこそ表現の自由を侵害している。「誰かにとって気持ちの良い結論だけが正しい、ゆえにそうではないものは消去してよい」は全体主義的思想そのものだからだ。
とはいえ、今回の「絶歌」については大きな問題がある。冒頭の2点がそれだ。その点ゆえに、私はこれを批判するべきと思う。
ひとつは「本名ではないこと」。表現の自由」といったが、これはもちろん「義務と責任も同時に背負い込む」ことが前提だ。しかし「少年A」名義で出されたこれは、その義務を最初から放棄している。これまで社会的制裁によって反省とつらさを味わってきたとはいえ、それは犯した罪に対する当然の見返りであって、殊更悲劇的に語るようなものではない。年齢的にも「少年A」ではなくいっぱしの大人の年齢のはずだ。そこまでになって、あえてこの本を出そうというのだから、当然それへのリスクは「少年A」たる本人が背負わなくてはいけない。それができないのであれば、「言いたい口をひたすら閉じて耐える」事自体を贖罪のひとつとして理解しなくてはいけない。当然、太田出版内部でもどうするか考えた上での結論であろうが、さすがにこの部分については批判的な立場をとらせてもらいたい。
もうひとつが印税の問題。先ほど書いたようにこの本は「義務と責任から逃げている」状態であるため、これは「責任を取らないまま、ただ自分の苦しみを解放させるために出した本」として見るしかない。そして、そのような本の印税がそのまま彼の懐に入ること自体理解に苦しむ。これでは「昔は悪であって多くの人にひどい迷惑をかけたが、今では更正して、むしろそれが武勇伝として人気者」と同じパターンであり、最悪のひとつだ。今回の件で「サムの息子法」がクローズアップされているけど、これは本当にそう思う。この点も太田出版側は何らかの英断が必要だったのではないだろうか。・・・もちろん、そんな理由で集まった加害者のお金を、遺族側が受け取ってくれるかどうかは別だけども。